夕暮れ時。市場は夕食の材料を買い求める人で溢れ返っている。 仕事を終えたも、食べ物の良い匂いにつられて市場に足を踏み出していた。 (明日が休みだし、何作ろうかな?) 始めたばかりの仕事にはまだまだ慣れない。それでも不慣れなに、店主も他の従業員も辛抱強く付き合ってくれる。その想いに出来るだけ応えたいと思うと、どうしても家での時間を削ってしまう。 元いた世界とは異なる世界に来て、一年が過ぎていた。 言葉が通じず、文化も大きく異なる世界だ。一年経った今でも上手くコミュニケーションが取れなかったり、この世界での常識を知らなかったり、言葉の壁にぶつかったりする。 時々、外に出るのが怖くて、逃げ出したいと思うこともある。 彼なら多分、そんな風にが逃げたとしても受け入れてくれるだろう。それでも守られるだけではいけないと思ったから、一人で家を借りた。クロロには十分過ぎるほど良くしてもらった。このまま彼に守られるままでは、彼に依存しきってしまいそうだった。 とはいえ、一人で全て出来たわけじゃない。ただ、一人で家を借り、自分で仕事をすることで自立への一歩を踏み出したかった。 仕事には不慣れで、心も体も疲れている。だけど、その疲労も悪くない。 少しずつ自分の足でこの世界に根付いていくようで、疲れを上回る充実感があった。 色とりどりのフルーツや野菜の並ぶ市場に目を向ける。飲食店からは食欲を誘う香りが漂ってくるが、給料日前で寂しい懐のためにも外食は避けたかった。 (作り置きできるのがいいよね。ギョーザにしようかな) ギョーザなら冷凍にすれば長持ちだし、の大好物のひとつだ。一度だけ、彼にも出したことがある。 実家にいた頃はほとんど料理を作ったことがなかったから、彼に手料理を振舞うのにはいつも緊張する。クロロはどの料理にも文句を言ったことはないが、食べ方を見れば彼の好みが分かってくる。ギョーザはどうやら気に入っているようだった。 彼のことを想うと、途端に注意が市場から逸れていく。 こんな風に、頭から離れられないほど誰かを想ったことは初めてだった。 それくらい、クロロという男は印象的な男だ。 ―――とても綺麗で、とても怖くて。 クロロのような人間を、は他には知らない。 幾度か会ったことのある彼の仕事仲間である旅団のメンバーも特異な存在感を持つ者たちだった。 しかし、彼らとも誰とも、クロロは異なっていた。 雑踏の中に立っていたとしても、クロロならば見つけることが出来るだろう。 空間から浮かび上がるような、圧倒的な存在感があるのだ。 ―――ただそこに立っているだけでも強烈な、違和感にも似た、それ。 それを何と言い表せば良いのか、には分からない。けれども、クロロのような存在がひどく稀であることは分かった。元の世界でも、この世界でも、クロロなような人間には出会ったことがない。 美しいのか、醜いのか判別はつかない。判別はつかないままに魅了されていた。 ふと、何気なく雑踏へ視線を戻した。 見るともなしに見ている視線が、一点で止まる。 目が、離せなかった。 (うそ……) 人ごみの中に佇んでいたのは彼だった。忙しなく行き交う人々の中に、くっきりと浮かび上がるシルエット。間違いない、彼だ。 前髪を下ろした童顔の青年と視線がかち合う。 途端に激しく脈打つ鼓動に、は眩暈がするような心地になる。 心動かされたくないと願っていても、の体は正直だった。心臓が急激に速いリズムを打ち始める。それにクロロが気づかないはずがない。気づかれたくないと思っても、それが無駄だいうことも知っていた。それでも、少しでも平静に見えればいいと願った。 ゆっくりとした足取りで、クロロが近づいてくる。 美しいのか、醜いのか判別はつかない。 に分かるのは彼近づくにつれ、自分の心臓の音が大きさを増していくことだけだった。 2009/04/30
久々すぎる新作。リハビリです。超短編で申し訳ない。 |