疲れ果てた末の眠りから、じょじょに意識が覚醒していく。光量の絞られたランプの明かりが目に入り、思考がはっきりとしていく。 ひんやりとしたシーツの感触と、人の気配のない様子には咄嗟に声を出していた。 「クロロさん?」 の呼びかけに、クロロと呼ばれた男は面を上げた。 この部屋で一番上等な品であるソファに腰掛けて、彼は表情の読めない顔で本を読んでいる最中だった。真っ黒な瞳が底なしの深淵のようにも見える、不思議な男。 が上半身を起こすと、安物のスプリングがやけに大きな音を立てた。 彼がいることにほっとして、同時に恐怖を感じる。 「どうした?」 男の声は、ひどく甘い。絶対零度の冷ややかさが、女にとっては狂おしいほどに甘美ものであることなど、は知りたくなかった。望んでなど、いなかった。 どうしてこの男は、を傍らに置くのだろうか。 出会ってから年は流れ、この安い部屋に彼が居ることにも、こうして間近に在ることも、とっくの昔に慣れて、クロロの存在はに染み付いている。 疑問は消えることなく燻ったまま、取り残されて。 チロチロと低温で炙されて、組織の深い部分まで傷ついている。 確かに、の存在は男から見ても物珍しいのかも知れない。彼の属する世界と異なる世界から来た異邦人。珍奇な品を愛でる好事家のように、彼が一時期を愛でるのも分かる。しかし、は未だに彼の傍に在ることを強いられていた。 他の盗物は、全て売り払われてしまったのに。 彼がもっとも長く愛眼していていた、燃えるような緋の色の瞳でさえも、数年前に手放してしまっている。けれどもは、彼の手元に残された。 ―――ナンデ? 「どうした? 気分でも悪いのか?」 問いかけたい言葉は声にならなくて、不意に落ちた沈黙にクロロが不思議そうに問いかける。ソファから立ち上がった彼が、ベッドに手をついての顔を見下ろした。 ―――瞳と瞳がかち合う。 光のない黒。 静謐で貪婪で、底のない闇。 の知る、どんな人間とも異なる恐ろしい瞳。ヒソカに感じる生存本能と、女性としての恐怖とは違う。 これは、魂を砕かれる恐怖。 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。 本能とは違う場所での恐怖は、出会ったときからを捕らえて離さない。クロロは今までに一度だって、を乱暴に扱ったことなどないというのに。いつでも彼は、やさしく、やわらかく、紳士的にを扱った。出会いのあの日から、ずっと。 震えるに、クロロは痛みを堪えるような表情をした。指先が、の頬にかかった髪を払う。 片腕が肩を抱き寄せ、クロロの厚い胸板に顔を押し付ける格好になった。ふわりと、甘い体臭が鼻を掠める。嗅ぎ慣れたコロンの香りに、肩が跳ねた。 何者にも傷付けられることの不可能な空間に閉じ込められて、なお、の恐怖は薄まらない。 誰よりも恐れている者の腕に抱かれているからだ。他の誰よりも、手酷く傷つけることが出来るクロロが、を容易く傷付けられる距離にいる。 冷や汗が滲むほどの恐怖を感じているのに、気付いていないはずはないのに、クロロは抱き締める腕を緩めてはくれなかった。やがて……少しずつ、の体から強張りが解けていく。心臓の脈打つ音がトクトクと心地良い音を奏でていて、ぬくぬくとした人の温かい体温がを包み込んでいることにようやく気付いた。 深い息を、意識的に長くゆっくり繰り返して、弛緩していく体を彼に預けた。 「ごめん、なさい」 何故だか泣きたくなった。 彼は、怖い人だと思う。A級賞金首の、盗賊団の頭で、きっと沢山の人の命を殺めている。これからも殺めていくのだろう。 それでも、右も左も分からず戸籍すら持たないの世話をしてくれた。言葉を、文字を、住む場所を。この世界での生き方そのものを、根気強く教えてくれた。クロロに拾われなければ、今頃みじめに死んでいただろう。本来の世界と違って、こちらはひどく物騒だった。 「気にしなくていい」 「……ごめんなさい」 冷徹非情な男。けれども、の行動ひとつに傷くこともあるのだと知っている。 人を傷付けるのは怖い。どんな小さなことでも、その痛みを想うと自分自身が痛みをイメージしてしまう。自分に、痛みを返されることを想像してしまう。 「……お前のせいじゃない」 髪を撫でる手が、慰める声が、あんまりやさしくて。 は震える息を吐く。 なんて、臆病でちっぽけな自分。 とっくに全てをこの男に奪われてるくせに、不確定な未来に怯えて、クロロを受け入れることが出来ないでいる。そのくせ突き放されるのが恐ろしくて、中途半端な距離を保とうと足掻いて。 彼から香る、血の匂いに、死の気配に、嫌悪を感じていても、離れることは出来ない。 彼に、全てを捧げること潔さもないくせに。 離してほしくて、離れてほしくなくて。同じ場所に佇んだまま、もどかしい距離を詰めることも広げることも出来ない自分を、は心底疎ましいと想った。 「ごめんなさい」 クロロの与えてくれる献身に、は相応しくない。知っているのに、とことん突き放すこともしない、自身の強欲さに絶望する。 「 」 溜め息のように降ってくる言葉に、は身を強張らせることしか出来なかった。 2007/05/22
両思いなんです! し、信じてください!(分かり難い!) |