人気のない堅牢な長い廊下を、キルアは歩いていた。
 外部からの敵を防ぐために迷路のように張り巡らされた廊下は、石畳で作られ、まるで檻のようでもある。
 振り返らないと覚悟を決めて踏み出した足を、キルアは止めた。
 キルア、と呼びかけられたのだ。他の誰とも違うその響きが、キルアは大好きだった。
 兄とも、父とも、祖父とも、母とも、執事とも違うやわらかな声音。
 恐れも遠慮もない、ごく近しい者に許す微かな甘えの滲んだ声。そんな風にキルアを呼ぶのは、一人しか存在しなかった。

「キルア」

 静かな、けれども強い意思を秘めた声は凛と響く。
 キルアは足を止め、ぎゅっと拳を握った。振り返りたくなどない。しかし、その声に引かれるように振り返ることを止める事は出来なかった。
 シンプルな純白のワンピースを身に纏った少女が立っている。濡れた黒羽のような漆黒の髪が、肩の下で揺れていた。ほっそりとした華奢な肩の上に、小さな輪郭がのっている。長い睫毛の下に、猫のような大きめの釣り上がった瞳がきつい色を湛えてキルアを見据えていた。
 真っ白なワンピースの腕や袖口に鮮やかな真紅が咲いている。まるで花のような赤の正体を、キルアは知っている。

「キルア、何処に行くの」

 変わらない表情、変わらない口調。けれども、そこに込められた感情は痛いほど雄弁にキルアに語りかけてくる。
 この、三つ年上の姉が特にキルアを可愛く想っていることは知っていた。跡継ぎだからというわけではなく、暗殺の才能があるわけではなく、ただその気性が好きなのだと言ってくれた唯一の人。
 姿を見れば、声を聞けば、眼差しを感じれば、決意は揺らいだ。
 息が詰まるような、激しい感情の動揺を押さえつけながら、真っ直ぐに見詰め返す。
 生半可な覚悟で家を出るのはない。死をも覚悟した上での決断だった。

「キルア」
「……家を出る」
「何を言ってるの?」

 きつく眦を上げて、は殺気すら込めてキルアを睨みつけてきた。
 ずんっと全身に感じる重苦しい圧迫感。刃先で心臓を嬲られるような恐怖と息苦しさに、冷たい汗が滲む。
 それでもキルアは瞳を逸らさない。

「オレは、ゾルディック家を出る」
「……だから、母さんとミルキを刺したの?」

 家族を大切に想っている姉にとって、無意味な殺傷は十分に嫌悪に値する。今更ながら、この人に嫌われることに恐怖した。
 それでも、引き返すことは出来ない。

「あいつらが止めるから、」
「当たり前でしょ。キルにはまだ外は危ないもの」

 不安と心配の滲んだ眼差しに、その愛情に、キルアは揺らぐ。姉の想いがまだ自分に注がれていることが嬉しくて仕方がない。
 本当は、離れたくなどない。
 告げることは叶わない想いを抱いて、キルアは反する言葉を紡ぎ続ける。

「オレは、家は継がない」
「キルア」

 波立つ感情のままに、きつくなる眼差し。滅多なことでは感情を荒げない姉が、自分の為に怒りを露にしている。その眼差しすら快感なのだ。

「もう仕事もしない」
「何を、」
「姉貴」
「キル」

 家族だけが呼ぶ愛称を口にして、は静かに泣いていた。
 雪のように真白い頬を、透明な滴が伝っていく。

 ―――ああ、キレイだ。

 宝石なんかよりも、もっともっと美しく尊いモノ。
 生まれて初めて、キルアは人の涙を美しく思い、胸が締め付けられるような切なさを覚えた。

 どう言葉を重ねても、キルアの決意を翻意させることは出来ないのだと悟ったのだろう。は大きな瞳を潤ませて、ただキルアを見詰めた。

「じゃあ、オレ行くから」

 長い睫毛が伏せられる。透明な滴は睫毛に弾かれ、ゆっくりと頬を伝い落ちていった。
 深い吐息をひとつ吐くと、は凪いだ瞳をしていた。
 全てを受け入れた、穏やかな色だ。

「気をつけて。外は危ないから、無理をしないでね」
「うん」

 身を屈めた姉が、いつものように頬にキス落としてきた。ふわりと鼻先を掠める甘い香りも、もう感じることは出来なくなるのだ。
 皮膚を突き破ってしまいそうな衝動を押し殺し、キルアは姉の頬に唇を寄せた。
 言葉はこれ以上必要ない。
 姉を残し、キルアは長い廊下へ進みだす。
 はまだその場を動いてはいない。視線を背部に感じながら、キルアは努めて一歩一歩踏み出していく。振り切らなくてはならないものを一つずつ断ち切っていく為に 、それは必要な儀式だった。

 キルアの胸には、誰にも知られてはならない想いが息づいている。この想いの色が、許されざる色をしていると気付いたのはいつの頃だろうか。
 けれどもキルアは、この色を手放せない。この貪婪な全てを飲み込む想いは、あの綺麗な純白を染め上げてしまいそうで、キルアはそれが恐ろしくてならなかった。
 誰よりも、何よりも愛おしい姉。
 六人兄弟の中の唯一の娘とあって、家族中に溺愛されている彼の人を守る為に決断しなければならなかったのだ。

 禁忌の色を纏って、キルアは一人ゾルディック家を出る。
 後ろを振り返ることは、もう無かった。







禁色





2007/07/23

突発的なキルア姉夢。
姉弟設定に萌えてしまいました(^-^;