気紛れを自認しているヒソカが、を共だって街へ出たのは移動先の街に着いた二日目の昼過ぎだった。 この世界に迷い込んでから初めて昼間に外に出るにとって、この世界の街は全てが物珍しく、興味深い。 言葉も文字も通じない世界。 今まで住んでいた場所とは違う理で動く世界だ。 の常識など、微塵も通用しないに違いない。 それを思うとただ街を歩くのすら不安だった。しかし、一歩街に出てみればそれを上回る好奇心に心が浮き足立っていく。 ヒソカに連れて来られたレストランの食事もびっくりするくらい美味しくて、デザートもきっちり食べてしまった。美味しいものでお腹が満たされて、緊張がほどけていく。 隣を歩くのがあのヒソカだというのに、は前よりもリラックスしている自分に気付いた。 (何を考えてるのか、ほんと分かんないのに) 気紛れで、酷薄で、人の命を何とも思っていないような危険人物。 善意に溢れている人間ではないことは確かだ。それなのに何故、を連れて来たのかだろうか。 何の能力もないは、ヒソカの言う所の『青い果実』などでは間違ってもないし、かといって他に特殊技能があるわけでもない。異世界から来たという以外、特筆することなど何一つないのだ。 異世界から来た者というのはこの世界においても希少価値があるのかも知れないが、それだけの理由で傍に置いておくような人間とも思えない。 かくして、ヒソカの考えは読めず、にはヒソカが不可解で不気味でさえある。 それでも全面的に世話になっている人のことを悪く思い続けるのは心苦しい。その上、美味しい食事まで奢ってくれたとなると、ついつい警戒心も薄れてしまうのだ。 (今度はどこにいくのかな?) ヒソカからは次の行き先を聞いていない。もっとも、まだ殆ど言葉を理解出来ないに行き先を話しても無駄だと考えているのかも知れない。 白昼の街中を、奇抜な奇術師ルックで歩く男というのは目立つのだろう。街中を歩いているときは、あちこちから物珍しげな視線が向けられていた。 閑散とした住宅地の公園らしいこの場には、とヒソカ以外の人間はいないが、いれば特異な目を向けられていただろう。 とはいえ、この世界はの世界に比べると奇抜な容姿や格好をしている者が多かった。ヒソカも目立つは目立つのだが、かといって恐ろしく浮いているということもないようだった。 注目されている本人は、他人の視線を全く気にしていないようだった。臆することなく、堂々とした佇まいには絶対的な自信と余裕が感じられる。 (よく考えてみれば、ヒソカにしたらこれが普通の格好なんだよね…) 人を気にするようなタイプなら、普段からこんな格好はしないだろう。 から見ればかなり奇抜な格好を、ちらりと窺いながらヒソカに着いて歩く。身長が違うのだから、歩幅も違うはずで、それなのにが着いていくのに苦にならないペースというのは、ヒソカがに合わせてくれているのだろう。 意外なヒソカの気遣いに、は益々混乱していくのを感じた。 どうしてこんなに良くしてくれるのだろう? 良くしてくれる理由が思いつかない。 警戒し過ぎてし過ぎることはないと分かっているのに、やはり、良くしてくれる相手も無闇に疑うことはしたくない。けれども、理由が分からないから全面的に信じることが出来ずに、は戸惑ってしまう。 がぐるぐると思考の迷宮に陥っているとき、不意に彼は現れた。 「ヒソカ」 荒げる事なくヒソカを呼び止めたのは、まだ年若い青年だった。長身にシンプルな黒い衣服を身に纏い、闇に溶けいるように佇んでいる。厳しい顔つきと、無駄の無い所作が大人びているが、実際はとそう変わらない年齢だろう。 しかし、その声に込められた深い憎悪は、青年が持つには似つかわしくないもだった。 まるで歳月を経た老人のように静かでありながら、深い、声。 高温で静かに燃え盛る怨嗟の声は、害意の矛先ではないさえ身動き一つ出来ない緊張に飲み込んだ。 向けられる視線に、気配に、肌がぞわりと粟立つ。 尋常でない想いを背負った青年は、ゆっくりと近づく。 キリキリと高まっていく緊張感に、息苦しさを覚える。縫い止められたように足は動かず、ただ、彼を見続けることしか出来なかった。 「あ、っ……」 (い、やっ!!) 青年が放つ雰囲気よりも、もっと激しい嫌悪を感じさせる空気には喘いだ。 じっとりと絡みつくような気味の悪い感覚。感じたことのない未知の感覚は純粋な恐怖だった。 立っているのもやっとな程、全身が震えていた。 今すぐこの場を逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。だが、恐怖に竦んだ足は動いてはくれなかった。 禍々しい気配は、のすぐ傍から放たれている。 『…ふふふ。いいねぇ、その眼』 にんまりと薄い唇を持ち上げて、ヒソカが笑った。 血の愉悦に満ちた、禍々しい笑み。 ―――は悟った。 これは己とは違う生き物だ。 人ではないモノ。異形のモノだと。 『誰の仇討ちかな? ま、誰だとしても覚えてないだろうけど』 には言葉は分からない。それでも、それが嬲るためだけに放たれた残酷な意図を持っていることは分かった。 青年は激昂し、刀を抜いた。 瞬きの間に距離を詰め、ヒソカに切り掛かる。 軽く半身を後ろに倒しただけで刀をかわしたヒソカは、軽い所作で腕を振った。の目には、ほんの軽く力など入っていないように見える動きだった。 「がはっ!?」 肉と骨のぶつかる気味の悪い音。詰まった苦悶の声。 青年は数メートルも吹き飛ばされ、地面の上で悶えている。刀を杖にし、立とうと身を起こすも、大きなダメージを負ったことは明白だった。 『ああ、その程度なのかい? もっとボクを楽しませてくれよ』 心底残念そうに何事かを呟くヒソカの顔は、桜色に上気していた。興奮に潤んだ瞳は、子どものような純粋な喜びに彩られている。 心から、ヒソカはこの場を楽しんでいるようだった。 「くっ、ヒソカッ!」 怒りに突き動かされるように、青年は立ち上がり、ふらつく足で走り出す。 迫り来る刀を見詰めながら、ヒソカはうっとりとした表情で唇の端を舐めた。 ・ 青く、どこまでも続くように晴れ渡った空の下には、噎せ返るような血の臭気と、既に事切れた男の遺体が一つ。 ―――そして、血に濡れたトランプを指先に掲げた奇術師が一人。 マザーグースの童歌のように、それは、恐ろしくリアリティを欠いた光景だった。晴れ渡った公園の風景と無残な死体の組み合わせは、あまりにもかけ離れ過ぎている。 映画かドラマように、それが現実のものとは思えない。 人ひとりの命。その尊いはずのものが、ひどく呆気なく、簡単に摘み取られていくことをは信じることが出来なかった。 「…う、そ」 身動き一つとれず、呆けたように立ち尽くすしか出来ない。信じることが、出来ない。 (だって、さっきまでしゃべって…動いて) ほんの数秒前まで、彼は生きていた。 空は変わらず青く晴れ渡り、そよぐ風も何の変わりも無いのに。 もう、彼は、いない。 (……嘘だ) 否定は、虚しい現実逃避にしか過ぎないことをは悟ってしまった。視覚的な感覚よりも、じりじりと立ち昇る鉄の臭いに、は確かな彼の『死』を実感した。 風に拡散されていく中でも、むせ返るように血の臭いが香る。これだけの血を失って、とうてい人間が生きていられるはずがない。 『』 唐突に呼ばれ、は身を震わせた。生き物としての本能が、けたたましく警告音を鳴らしている。 逃げなければ。 でも、何処へ? この世界で、は一人ぼっちだ。頼れる者なのど、ただの一人もいない。戸籍も、言葉もないが行ける場所など、何処にある? 返り血ひとつ浴びていないヒソカが、血の付いたままのトランプを掲げたまま近づいてくる。 逃げなければ。 「…っ、」 恐怖の呪縛は解けていた。足は、動く。容易く追い付かれてしまうだろうが、一縷の望みに縋って逃げることは出来る。 本能は警告を続けている。逃げろ、逃げろとがなり立てる。 それなのに、は動けなかった。 血の臭いを纏い、瞳を潤ませ、興奮に頬を上気させた魔物はゆっくりと近づいてくる。薄いブルーの瞳には、酷薄な愉悦が浮かんでいた。 (キレイ) 恐怖は不思議と感じなかった。 ただ、その瞳を見続ける。 近づいてくるヒソカの背後には、目も覚めるような青い空が広がっていた。 2007/08/12
突発的に書きたくなったヒソカです。 彼は残忍で気紛れで最悪で醜悪で、だからこそ惹かれずにはいられないほど蠱惑的。 まさに魔性の男(笑) |