キッチンに向かい、遅い夕食の片付けをしていると、ドアが開く微かな音が聞こえた。
 一人暮らしのアパートに、以外の人間は存在しない―――はずだった。
 はっきりと聞こえる人の足音。人の気配。
 反射的に身体が強張り、鼓動が上がった。驚きに手の中の食器が滑り落ちて、耳障りな音を立てる。
 最近近くで強盗殺人があったのだと、物騒な事件があったことを思い出してしまった。殺されたのはと同じように若い女性で、一人暮らしだったとニュースが告げていた。中心街から少し離れたこのアパートは治安は悪くないのだが、女性の一人暮らしというのはやはりターゲットになりやすいのだろう。

(……泥棒?)

 それにしては、大胆な行動に思える。鍵などどんな方法でも開けることは出来るだろうが、気配も音も隠す様子がないのだ。
 違和感を感じるが、悠長に思考を巡らせる時間はなかった。音は確実にこちらに近づいている。

(どうしよう。どうすればいい?)

 恐怖で足が震える。最悪なことにキッチンはベランダから遠い。それでも逃げる、以外の選択肢を選ぶことは不可能だ。
 意を決して振り返ったとき、ちょうど音の主がキッチンに入ってくるところだった。

「―――っ!?」

 驚愕に心臓が跳ね上がる。口から心臓が飛び出してきそうなくらい驚いた相手は、泥棒ではなかった。それどころか、見知った人物だったのだ。

「……ク、ロロさん」

 キッチンの入り口に見慣れた黒のロングコートではなく、ラフなジーンズにジャケットという格好の青年は立っていた。いつも後ろに撫で付けられている前髪が下り、青年の童顔がいっそう幼く見える。
 人目を惹く顔立ちをしているが、凡庸とした雰囲気は無害な青年にしか見えない彼が、極悪非道の強盗集団の首魁であるクロロ=ルシルフルだと誰が思うだろう。
 もっとも、彼が容易く人を殺める人間であることをは知っている。
 彼が人を殺めることろに居合わせたことがあるからだ。
 とにかく強盗ではなかったのだと知って、ほっと身体から力が抜けた。次にクロロへの怒りが湧き起こってくる。何も言わずに入ってくるとはどういう了見なのだろう。ここはの稼ぎで借りた歴としたの家である。いくらクロロだといえ、無断で入ってくるのはマナー違反だ。

(真剣に怖かったんだから!)

 少しばかり、怖い目に合わされた意趣返しも入っていたかも知れない。は怒りに力を得て、いつもは目を合わせるのにも勇気がいるクロロの瞳を、きっと睨み付けた。

 深い深い―――光すら届かないひんやりとした深海のように、微動だにしない瞳。

 他の誰とも違うその瞳の色に、は一気に血の気が引いていくのを感じた。自分が丸ごと飲み込まれていくようで、恐ろしくて堪らない。どれ程の年月、彼と過ごそうともこの恐怖が消えることはないのだろう……彼が、彼である限り。
 鳴りそうになる奥歯を、必死に噛み締める。怯えた様子を見せたくはなかった。
 最後の意地で瞳だけは逸らさない。

「あ、」

 一瞥しただけでは気付かなかった。黒いジャケットに付着している、赤い粘液。微かに鼻に突く、鉄臭。

 それは、

「……血」

 カチリと歯が鳴った。

「あ、……」

 意識するより先に、全身が激しい緊張に硬直した。恐怖が全身を支配し、呼吸をするのもままならない。

 これは血だ。
 血の匂いだ。

 間違えるはずがない。は、血を、血の臭いを知っている。

 恐怖に全身を貫かれて、呼吸が浅く速くなる。リズムが急激に上がり、息苦しさに体を折った。
 視界が涙で滲んでいく。必死に顔を上げて、クロロを探す。指先の血が引き、寒さと呼吸の苦しさに軽いパニックに陥った。

(怖い。怖い。怖い。怖い――――)

 人の死が。
 人を死に至らしめる目の前の人が。
 恐ろしくて恐ろしくてならない。根強く刻み込まれたモラルと、生き物としての本能が恐怖に悲鳴を上げている。克服することの出来ない懦怯が全身にべったりと張り付く。
 膝に額を擦り付けて、苦しさに呻くと、温かな手がそっと肩に触れた。

「息を深く吸うんだ。体の力を抜いて、深く…」

 耳朶に囁かれる深い声。動揺のないゆっくりとした言葉に、洗脳されるように息を深くしていく。
 体を支える揺るぎない腕は、恐ろしさと同時に、家族にも感じたことのない絶対的な安堵を感じた。まるで、闇に身をゆだねるような安心感があるのだ。
 腕に体を寄せ、彼の誘導に合わせて息を吸い吐き出す。
 幾つか呼吸をやり過ごし、ようやく落ち着いてきた頃はゆっくりと目蓋を開けた。
 覗きこんでくる双つの瞳。
 彼を彩る全てのものの中で、最も印象的は黒眼に、僅かな感情の色が浮かび上がっていた。もっともそれは、数瞬の間に幻のように消えてしまう。

「クロロさん……」
「黙って」

 ふわりと重力から逆らう感覚が起こり、クロロの腕に抱き上げられていた。膝裏と背中に腕が回り、いわゆるお姫様抱っこの体勢だ。
 慌ててクロロの服に取り縋る。服越しにも温かい体温が伝わって、何だか泣いてしまいそうだった。
 生きている人間の確かな存在がここにある。

「心配しなくても、すぐに帰るよ」

 の怯えた様子に、クロロはどこか自嘲の滲む声音でそう告げた。そうではないのだと、は微かに頭を振る。
 そうじゃない。それだけじゃない。
 怯えたのは、恐ろしいのは―――……。

 抱き上げられている所為で、強く匂う血の香り。それでも、は安堵してしまっている。
 クロロの体温に。クロロの香りに、安心してしまうのだ。
 人を殺めるのは嫌だった。それは今も変わりはない。
 だけど、それ以上に恐ろしいのは、クロロを失ってしまうことだ。
 クロロが殺めた人が、クロロに怪我を負わせなかったことを、クロロを失わなかったことをは喜んでいた。
 殺人を、肯定する自分自身には怯えずにはいられない。
 そんな風に自分を変えてしまう、目の前の男が怖いのだ。

 を下ろしたら、クロロは宣言通り帰ってしまうのだろう。ベッドルームまでの短い距離を惜しく思いながら、は静かに瞳を伏せた。







貴方は、知らない





2007/07/07

クロロサイドも書きたい話です。