部屋中を満たすあまったるいチョコレートの匂いに、マチは思わず顔をしかめた。マチは甘い食べ物があまり好きではない。
 とはいえ、マチはそのことに文句をつけれる立場になかった。
 この家の所有者は、という名の少女だった。
 十代の後半で、天涯孤独の身である少女は、現在まっとうな情報屋として地場を固めつつある。
 マチも仕事のないときは殆ど入り浸っているが、この家の代金を出したのも、その代金を稼いだのも一人だった。
 もちろん、A級賞金首であるマチは十分過ぎるほどの余剰がある。しかし、は頑としてマチからの援助を受け取らなかった。
 自立心の強い恋人は容易には自分を頼ってくれない。それがマチには時にはひどくもどかしく思える。また一方で、他者に依存することのないだからこそ、マチは惹かれるのだということも分かっていた。もしもがマチの収入を当てにし始めたら、マチは興ざめするだろう。己の足で立とうとしない依存心の持ち主を、マチの精神性は忌避していた。
 キッチンから聞こえる物音向かって、マチはゆっくりと移動した。音を立てずに歩くのは、職業柄身に染み込んでしまった所作だったが、を驚かせたいという少々人の悪い楽しみ為でもある。
 キッチンは玄関よりも更に甘い匂いが充満していた。胸焼けを起こしそうなほどの甘い、チョコレートの匂い。
 はまだマチに気付いていない。小柄な後姿を捉えて、マチはそっと溜め息を零した。
 出会いから四年の月日が流れている。彼女の小柄な体躯は、ほんの少し成長したもののが望むよりははるかに小さいままだった。もっとも、マチはそれを好んでいた。マチの大きくな腕にも、はすっぽりと納まる。
 動くたびにと落ちる栗色の髪。ほっそりとした華奢な背中。の全てに、マチは窒息しそうな愛しさを覚えた。
 旅団以外で、マチの心を動かす唯一のものがだった。
 への想いは旅団への想いとは明確に異なっている。それは、甘く、重く、ずっと壊れやすく脆い感情だった。
 旅団はマチの精神的中枢だった。絶対の忠節を誓う、マチの属する場所。揺るぎなく、人生の全てに亘るものだ。
 一方ではマチの壊れやすい部分の殆ど全てを占めていた。
 マチは自分自身の全てをに明け渡すことが出来ないことを知っていた。どれだけマチ自身が望んだとしても、旅団はあまりにも絶対だった。マチは蜘蛛の一足であることを自分に課していた。
 はマチにとって旅団が何であるかを理解し、許した唯一の存在だった。マチは旅団の一部であり、また旅団はマチの一部だった。一方が欠ければ、また一方も消滅するだろう。
 もしも、と旅団が相反したとしても―――マチは迷いもなく、旅団を選び取るだろう。苦悩し、傷ついたとしても、一瞬たりとも迷わないだろう。
 そんなマチを知りつつ、受け容れてくれたのはだった。

「何を作ってるんだい?」

 マチはの肩に腕をまわし、彼女の手元を覗き込んだ。
 腕の中で、は小さな悲鳴をあげて飛び上がる。

「……マチっ! 足音を立てずに歩くのをやめて!」

 心底びっくりしたと表情に出す素直さに、マチは笑いを噛み殺すのに苦労した。
 初めは弱さとしか捉えられなかったのやわらかな感情。
 今ではそれすら愛しくてならない。
 その甘さも、弱さも、不器用さも。
 を形作るひとつひとつが、大切で、あまりも貴重に思える。
 過酷な現実を知りながら、それでもなお甘さを失わない。マチには出来ない、出来なかった生き方をしている。だからこそ、は貴重だった。大抵の人間は、非情な現実を目の前にしたとき、他者を踏み捨てることも厭わないものだ。マチ自身がそうであり、また旅団のメンバーもそうであった。その生き方を、マチは厭わない。自分の力で自分を守り、生きていく。他者を頼みにする輩などより、ずっとマシではないかと思える。
 けれども、また、の生き方も否定する気にはなれない。

「悪かったね」

 少しも悪びれたところのない物言いに、は溜め息を吐く。反駁する無駄を悟ったようだ。

「パウンドケーキを作ってるの。甘いものが好きな可愛い友だちが出来たから」

 が手ずからケーキを作る『可愛い友だち』が少し気にかかったが、詮索はしなかった。それよりも腕の中のの、拗ねたように尖らされたぷっくりとふくらんだ小さな唇に誘われてマチは顔を傾ける。
 マチの意図に気付いたが、ゆっくりと目蓋を閉じる。微かに震える長い睫毛の軌跡を追いながら、マチは唇を重ねた。
 甘い香りを放つ蜜のように、はマチを誘惑する。
 無自覚の誘惑に囚われている自分を自覚しながら、マチは自らへと溺れていく。
 この小さな家の中では、マチは自分自身の弱さを許すことが出来るのだ。






あまい、誘惑






2008/04/30

『可愛い友だち』はこれから出てくる予定です(笑)久々のマチ姐さんでノリノリで書いてしまいました。