「あ、」 スケジュール手帳を見ていたが突然あげた声に、クロロは視線を本から離した。クロロの視線に気付く様子のないは、ぶつぶつと独り言を呟いている。 蜘蛛の小さな仕事を終え、クロロは数冊の本と共にのアパートに転がり込んで来ていた。今日はの仕事先は定休日で、予定のなかった彼女も家の細々とした仕事を昼過ぎには終えて、テレビを見ながらスケジュール帳を捲っていた。読書をしながら同時に他の事をするということが出来ないクロロからすれば、いつ見てもの行動は恐ろしく器用に思える。そのくせ、の運動神経は一般人以下なのだから世界は不条理に満ちている。 「どうしたんだ?」 好奇心を誘われたクロロは、未だ自分の世界にいる彼女に声をかける。漆黒の瞳が、ゆっくりと持ち上がってこちらを見る。 「今日、七夕なんですよ。すっかり忘れてました」 「タナ……? 何だ、それは?」 聞き慣れない言葉だった。恐らく、彼女の故郷の言葉なのだろう。 クロロに通じないと悟ると、彼女は少し苦味の強い笑みを浮かべた。その複雑な感情の錯綜した笑みは、胸の奥に巣食うクロロの貪欲な部分を刺激した。 貪婪なまでの独占欲が鎌首を擡げる。 この世界にはない、彼女の住んでいた世界。彼女の故郷への懐郷の想い。 『帰りたい』と、望まない日はないだろう。 がもう二度と、手に入れることの出来ないもの。それでも―――だからこそ、永遠にの胸に息づくものだった。 例え帰る方法が見つかったとしても、二度と元の世界になど帰らせるつもりはない。 低温で沸き立つ暗い感情を、クロロは押し隠した。 「日本の風習なんですけど……七月七日に短冊に願いごとを書いて、笹の葉にかけると願い事が叶うって言われてるんですよ」 「何故だ?」 「……何故って―――なんで、なんでしょうね?」 きょとんとした表情のに、今度はクロロが苦笑してしまう。理由も分からずにやっていたのだろうか。訳の分からない風習だ。 「そう言われてみれば、変ですよね……当たり前にやってたから、そうなもんだと思ってました」 風習というものをもたないクロロからすると、それは奇妙なことに思うのだが、にとってはそうではなかったらしい。周囲が当然のようにしていたから、疑問に思うこともなかったのだと言う。 「ほんと、良く考えてみたら不思議……それに、七夕ってもう恋人同士のイベントってイメージが強くなってたし。改めて考えてみると、由来とかそういうの良く分からない……」 「恋人同士のイベント?」 (星に願いごとを頼むのが、か?) 確かに、女が好きそうな甘ったるい伝説ではあるが、それがどうして恋人同士のイベントになるのか結びつかない。クロロの疑問に、は柔らかな声で説明した。 「七夕伝説、というのがあるんです。天の世界に、織姫と彦星というとても仲の良い夫婦がいて、元々は二人ともとっても働き者だったのですがあまりにも仲が良すぎて、結婚してから働かなくなるんです。それに怒った神様が、この夫婦を天の川を挟んで別居させて年に一回だけ会うことを許した―――というのが七夕伝説です。夜空が晴れて星が見えたら、二人は会える。曇って星空が見えなかったら会えないんですって。ロマンチックなんで、この日に結婚するカップルも多いんですよ」 「……別居する夫婦の日に結婚するのか?」 クロロはゲンを担ぐ行為に意味を見出せないが、七夕に結婚するカップルは完全に理解の範囲外だった。むしろ、結婚する日には相応しくない日取りにさえ思えるのだが。 「そっか。……確かに、そうですね。年に一回しか会えない夫婦の日ですもんね」 は感心したように呟いた。そんなことを考えたこともなかったと、表情が教えている。派手に表情を取り繕わないだけに、素直に感情が反映される。その素直さが、クロロには新鮮に感じられるのだ。 「星空とか恋人同士が離れ離れとかロマンチックなシチュエーションのイメージばかり先行してました」 もっとも、世間の恋人達からすればそれだけで十分なのだろう。 ロマンチックな伝説は小道具にしか過ぎない。甘い時間を過ごす為に、イベントに託けているだけなのだ。 「……ああ、それも良いかもな」 「え?」 不思議そうに問い返してくる少女に、不敵な笑みを浮かべてやる。とても楽しい思いつきを実行する為に。 「恋人同士の、イベントなのだろう?」 恋人同士のイベント。つまりは、クリスマスやバレンタインのような行事なのだろうと想像がつく。 となれば、の故郷での恋人同士の七夕の過ごし方を予想するのは容易い。 食事をして、ロマンチックな場所でデートして、最後はホテルにシケこむのだ。 「タナバタをしようか、?」 にやりと雄めいた濡れた笑みを向けてやる。は震え上がり、微かに息を詰めた。 震える哀れな獲物を前に、自身の血が熱く昂ぶっていくのを感じる。 途端に分かり易く頬を真っ赤に染め上げ、落ち着き無く瞳を彷徨わせる彼女の手首をクロロは簡単に掴まえることが出来た。 人差し指と親指が回りきって余る細い手首。ほんの少し力を込めるだけで折れてしまうそれを、クロロは強引に、けれど最大限の丁重さで引き寄せる。 皮膚の弱い彼女の唇は、いつも保湿用のリップクリームが塗られている。触れ合う粘膜から、冷涼感が伝わった。 この唇は、クロロに喰らわれるために在るのだ。 星空など無くても良い。どうせ、そんなものはすぐに思考から振り落とされる。 女を夢見心地にさせる甘い逸話さえあれば、あと必要なのはお喋りを塞ぐキスだけだ。 「っ! ……やっ、クロロ…さんっ」 望みを他者に願うことなどしない。 欲しいものは、己の手で力ずくでももぎ取ってみせる。 逃げていく唇を追って、深く歯列の奥へ侵入していく。クロロからすれば戦慄く微かな抵抗など無いに等しい。それどころか、弱々しい抵抗はクロロの熱を煽るだけだった。逃れれば追いたくなるのは、雄の本能だ。 衝動は止まらない。 腕の中に縫い止めるように、クロロはの唇に噛み付くようなキスを落とした。 2007/07/08
駄文極まりなく…。未来設定のつもりです。 |