男の白い端整な貌に、冷たい笑みが浮かぶ。

 ―――傷ついているくせに、泣けない大人。

 綺麗な顔にその凍った笑みは冴え冴えと似合いで、どうしようもなく凶悪な衝動が突き上げた。


( カミツキタイ )


 そんな笑みを浮かべる、貴方が悪い。






息もつかせぬようなキスを

















 狂気に満ちた哄笑を立てながら、男は抱き上げた幼女のこめかみに銃口を押し付けている。窓越しに見える凄惨な光景に、誰一人声を出す者はいなかった。
 既に周囲は包囲され、蟻一匹たりとて抜け出す隙間はない。男が逃げ出せる隙はない。だが、一個中隊の軍人に包囲されていながらも、男は怯む様子を見せなかった。
 その双眼を見れば分かる。妄執にとり付かれた爛々とした瞳は、正気を完全に失っていた。

「狂人か。……やっかいだな」

 発火布の手袋で手に嵌め、ロイは苛立ちを抑える為に奥歯を噛んだ。
 命知らずの凶悪犯であっても、実際に生命の危機が身近に迫れば動揺が生まれる。それは、攻勢を仕掛ける隙になる。
 しかし―――狂人にはそれが無い。己の命という本能すらも捨て去った地平に居るのだ。
 下手に刺激すればどんな手段に訴えるか予想がつかない以上、迂闊には動けない。窓越しに室内の様子が窺えると言っても、目隠し用の遮光カーテンが引かれていて、死角が多すぎる。立て籠もり犯は幼児を六人も人質にしているのだ。撃ち損じれば、人質の命に関わる。完璧な包囲網を敷いていながらも、軍は待機の状態が続いていた。

「大佐、子ども達の体力が限界です」

 二、三歳にしかならない子ども達にとって、長期間の篭城は著しく体力を削いでいく。事件発生から二時間、その間男と子ども達は一滴の水さえも口にしていないのだ。
 これ以上時間を引き延ばすのは無理だ。この暑さと異常な緊張で脱水症状を起こす。

(何か……)

「ご命令を、大佐」

(何か、あいつの気を逸らせなければ)

「大佐」
「マスタング」

 ホークアイのアルトと、少女のソプラノが重なってロイを呼ぶ。
 ソプラノの持ち主は、小柄な少女だ。青い軍服の群れに、黒衣の少女は殊更に異質だった。少年のように短い頭髪が、風にそろいで白い頬へ落ちかかる。釣り上がった大きな薄いブルーの瞳がロイを見上げていた。

「わたしが、行く」
「……

 苛立ちが募る。
 相手は、狂人だ。何をするのか、分からない。
 ロイの葛藤も知らぬ気に、白い面には何の感情も浮かばず、淡々と少女は告げた。

「あいつの注意を惹く。銃口を、離してみせる」

 決意を促す声。僅かの乱れも無い冷静な口調に、ロイは自嘲した。
 時間はない。悩む猶予もない。
 彼女の能力は、他の誰にも真似出来ない。ロイですら、代わりにはならないのだ。
 決断は重く、ロイは祈るように目蓋を閉じた。









 動きやすいように、ジーンズとTシャツにして貰った。用意して貰った服に着替え、は犯人に気付かれぬように建物に潜り込んだ。
 の役目は二つ。
 人質から銃口を離す事と、外部から見える場所に犯人を誘き寄せる事だ。

(動きにくい)

 ちまちまと小さな造りになってしまった自分の手足を見下ろして、は溜め息を吐いた。
 大人の姿では犯人を刺激し、人質を殺傷してしまう危険が高い為、はその身を人質の子ども達と同じ年代に変えていた。己の年齢を自在に操る―――これは、の能力のひとつであり、錬金術では行えない技だ。
 の能力はただ外見を繕っただけではない。その質量も変化する。それは、等価交換の理から外れた能力だった。
 は錬金術師ではない。異なる世界から、この世界に弾き飛ばされた放浪者だ。の能力は、この世界の理の外にある。
 この世界で、たった一人―――だけしか持ち得ぬ力。
 しかし、だからこそだろうか。の能力も、身体機能も、元の世界よりも著しく低下していた。
 元居た世界では考えられない程、体が重く、動きが遅い。体力も落ち、すっかり脆弱になってしまった身体。能力の発動も、まるで何か目に見えぬものに覆われているかのように、極度の集中力を必要とする。

(この姿も、もって10分)

 子どもの足で全速力で走って、辿り着いたのは張り詰めた緊張感を感じる部屋の前。
 数人の、息詰まるような恐怖の感情が流れてくる。頭の中で作戦を再度確認して、は扉に手をかけた。
 わざと音を立てて、引き戸を開く。

「あ、」

 ひくりと、引き攣った声を装う。呆けた表情で室内を見ながらも、素早く状況を確認した。
 部屋の隅で、身を寄せ合うように子ども達が固まっている。人数は五人。怪我をしている様子は見れらない。
 幼児を抱えた男が、入り口を振り仰いだ。その間も、ぴったりと銃口は人質の頭に押し付けられている。

 その男と、目が合った。

 正気を失い、己よりも弱い者の恐怖を、子ども達を想う者の悲痛な想いを愉しんでいる卑劣な目だった。
 男は突然の侵入者に驚き、けれども、それが幼児である事に残虐な笑みを浮かべた。
 は身を翻して走り出す。
 外から見える場所でなければならない。狙点を定められる場所へ、人質から離れた場所へ男を誘い出す。
 男は幼児を抱えたまま、を追って来る。
 幼児の甲高い泣き声が響く、悪趣味な鬼ごっこは短い渡り廊下に出たところで終わった。男は人質を振り落として、の腕を背後に捩じ上げた。後頭部に硬い金属の感触。痛みに出る呻きを堪えながら、反撃の機を窺う。
 荷物のように容易く抱き上げられる。近づいてくる荒い呼吸音に肌が粟立つのだけは抑えきれず、は顔を上げた。

『 イ マ 』

 声に出さずに唇だけで伝える。正確に読み取ると信じて。

 視線の先には、青い腕を掲げた男の姿が映る―――その指先が、打ち鳴らされた。

 渾身の力で犯人に肘鉄を食らわし、手足をバタつかせてもがくと、男の手が緩んだ。コンクリートの上に、肩から落ちる。衝撃を痛みを認知するより前に、圧倒的な熱さと耳をつんざく悲鳴が届いた。
 それを合図に、軍が突入してくる。
 数人の忙しない足音と、未だに続く断末魔の悲鳴。悲鳴と怒号が入り混じり、脳内をぐちゃぐちゃに掻き回す。
 くるりと視界が揺らいでいる。何とか半身を起こすと、人質の子どもがリザに抱き上げられているのが見えた。派手な外傷はないようで、ほっと安堵の息が漏れる。
 ひとまず、任務は成功したと言って良いだろう。

「大丈夫か?」

 何度か瞬きを繰り返して、ようやくクリアになった視界にハボックが映った。
 膝をつき、そっとを支えてくれる。
 軍人に有るまじき素直さを持つ青年は、の有様に痛むような表情を浮かべた。左腕に目を落とし、慌てて背後を振り仰ぐ。

「救護班、急げ! こっちだ!」

 それ程酷い状態になっているだろうか?
 左腕を動かすと、頭の芯まで揺らぐような痛みが走った。

「―――…っ!!」

 犯人に掴まれていた左上腕の辺りに、くっきりと手形状の熱傷がある。ロイが犯人に火を放った際に、逃げ出すのが一瞬遅かったのだろう。
 それでも、あと半瞬でも遅ければ腕ばかりか全身火ぶくれになっていたに違いない。

「うわー、間一髪って感じね」
「アホ! んなこと言ってる場合か。死んでたかもしれないんだぞ!」

 当事者であるよりもよっぽど痛そうな表情をして、ハボックは言葉荒く怒鳴った。
 痛みに対する耐性のあるからすれば、大した痛みでも怪我でもなかったけれど、まとも過ぎる程にまともな若い軍人からすれば看過出来るものではないらしい。

「でも生きてる」

 死ぬかもしれなかった。けれど、こうしては生きている。
 リスクの大きさは承知して受けた。なら、その結果に対してどうこう難癖をつけるつもりはにはない。

「……でも、よ」

 いっそう痛そうに表情を歪めて、ハボックは言葉を切った。痛々しいものを見るかのような視線は、ひどく居心地が悪い。生まれてこの方、を恐怖した者も憎悪した者も見下げた者もいたが、こんな風に不憫で堪らないといった目で見られたのは初めだ。
 くすぐったいような感情が、ひたりと胸で増していく。
 ハボックの健やかな優しさは、がずっと求めていたものかも知れなかった。

「あとは任せろ」
「ええ……分かった」

 担架に乗せようとするのを制して、応急手当を受けたは自分の足で救急車へ向かった。どのみち、軍属ではない自分が出来る範囲は限られており、犯人を押さえた今、やれる事はない。
 現場でせわしなく動く人々の中核にあの男がいる。は足を止めた。
 軍服の群れの中でも、違えようも無い。どうしようもなく、衆目を集める人間というのが存在するのだ。
 ちらりとも視線ひとつ寄越さないロイの事を、それでもは薄情だとは思わなかった。ロイにはロイが為すべき事があり、一人の人間などに時間を割く余地などない。
 自身もまた、ロイの注目が欲しいわけでもなかった。
 能力解除のリミットも近づいている。痛みの増してくる腕を抱え、はすぐに歩き始めた。
 








 元の姿に戻り、手当てを受けたは二日ぶりに東方司令部を訪れていた。
 先日の立て篭もり事件の後処理に追われ、ロイやその部下達は家に帰る暇もないらしい。律儀に見舞いに来てくれたハボック自身も、どうやら無理矢理空き時間をもぎ取ったようで、5分もしないうちに慌しく帰って行った。
 火傷はまだ完治しているわけではないが、随分と痛みは減ってきている。の怪我を心配しているに違いない司令部の面々に、顔を見せようと思ったのだ。
 ロイの執務室に向かっていると、不意に男の声が耳に入った。

「ロイ・マスタングも大した奴さ。あんな子どもを利用するんだから」

 声に含んだ侮蔑を隠しもせずに、中年の男は吐き捨てた。仲間らしき男が合わせるように嘲笑する。

「あの若さで大佐様だ。出世の為ならどんな手でも使うだろうさ」

 物の表面しか見た事のない者の言い方だった。
 顔に見覚えはない。けれども、軍服を纏っているという事は、東方司令部の軍属に違いない。ロイの、部下である男。
 認識した途端、どくり、と血が沸いた。
 ざわざわと粟立つ、怒りの衝動。

「それにしても、子どもに守られる腰抜けの司令官が上官か」

 その言葉に、一気に理性が蒸発した。姿を現してやろうと一歩踏み出す。
 次の瞬間、強い腕に引き寄せられていた。
 目線を上げると、白々しいまでに整った男の顔。唇の前に人差し指を立てて、無言を促され、は言葉を噛んだ。
 そのまま腕を引かれ、ロイの執務室へと誘導される。長い廊下を歩いている間、ロイは一言も発しなかった。ただ、掴まれたままの腕に、いつもよりほんの少し力が篭っている。
 その事実が、痛い。
 冷静さを装った男の感情が伝わるようで、はきつく唇を噛んだ。
 執務室に入っても、二人ともすぐには口火を切れず、重い沈黙が漂う。重く胃の腑の中で渦巻く感情は、あまりにも激しく言葉にならない。
 それを壊したのは、男の、嘲るような言葉だった。

「あの男が言うとおりだな」

 ロイは皮肉気に嗤った。その嘲笑がどこに向けられているのかは、明白だった。

「子どもを盾に身の安全を図った臆病者?」

 は思いっきり嘲笑ってやった。
 馬鹿馬鹿しい。説明するほどもない事だ。も、リザも、ハボックもロイに近い者達は皆、知っている。

「そうだ」
「バカね」

 溜め息を吐く気にもなれない。
 この男は、気にかける必要もないことを気にかけている。それはロイの弱さだった。
 ロイは自分の弱さを、容易く他人に見せる人間ではない。東方司令部の面々すら知らないだろう。しかし、何故かこの男はにだけは、自分の弱さを偽れぬところがあるようだった。

「馬鹿はひどいな」
「バカよ。分からないの?」

 の言葉にロイは静かに笑みを深めた。
 感情の全てを飲み込んで、この男は笑う。
 成し遂げる事の為に。歩みを止めぬ為に。
 容貌は少しも重なる部分はないというのに、その凍った笑みだけはあまりにも彼に似ていて、は痛みを覚えた。
 苦しみ、もがき、のた打ちながらも、歩みを止められぬと血を流しながら進む。
 この世界には存在しない彼の、白い自嘲の笑みが甦り、は喪失感に悲鳴を殺した。
 世界はあまりにも遠く、帰り道は未だ方向すら定まらず。早くと、急く焦りばかりが胸を焼く。
 閉塞感に喘ぐにすれば、目の前の男はあまりにも毒だ。人を殺すことに傷つきながら、捨てる事も、逃げる事も叶わない虜囚―――自虐的なまでのストイックさは、悪戯に彼を想起させる。忌々しいまでに。
 己の感情を見事に偽った綺麗で歪な笑みを見ていられずに、は軍服の襟を乱雑に引き寄せた。

 その笑みが、火を点ける。

 沸き起こる衝動に、理性は食い尽くされ、ただその唇を噛み切りたいとだけ望んだ。その笑みを突き崩したい。この笑みは―――嫌いだ。あまりにも彼に似すぎている。
 近づく白い面。
 ロイの瞳が驚愕に僅かに揺れる。目も閉じずに、見詰めたまま唇を寄せた。
 端整過ぎて冷たい印象の貌。しかし、吸った唇は人肌の熱を持っていた。

「……、はっ……」

 息の絡む距離で見詰めあいながら、ロイは突然のの暴挙にも疑問も拒否も戸惑いも見せなかった。
 快感に埋没する事を躊躇わない、軽薄さが快い。その大人の狡猾さと、脆さが愛しかった。

(ロイは、ちがう)

 潔癖な彼とは違う。彼は絶対にこんな風に身体を重ねることはないだろう―――だからこそ、彼とは重ならないロイに安堵する。
 ぬめった粘膜の熱を奪い合いながら、もつれるようにソファに倒れこむ。ロイの手腕は見事なものだ。確かに、この男は女の扱いに慣れている。
 ソファの軋む耳障りで卑猥な音。
 忙しなく男の軍服を剥ぎながら、潤み始めた瞳で見上げた。
 男の口元にはもう、あの冷たい笑みは浮かんでいない。

「性悪め」

 耳朶に囁かれる男の低音は湿っていた。
 満足の溜め息を零しながら、欲に浮かされた野蛮な笑みを浮かべる冷たく熱い唇に、は獣のように噛り付いた。    





2008/02/24

構想と全く違う話になるってどういう事?(涙) もっとムーディかつ爛れた感じにしたかったのですが……撃沈。